室井摩耶子トーク・コンサート

2005年10月8日 白寿ホール ( Hakuju Hall )

・ベートーヴェン:ソナタ 第14番“月光の曲” (Op.27の2)

・シューベルト:ソナタ 第21番 “遺作” (D.960)

プログラムノート (執筆 室井摩耶子)

 

 

演奏会を前にして

 

 年月というものは、すぎ去ってみると「ああ、長いものだった」と思うのだが、その時はいつも「今日一日、今のとき」のつみ重ねなのだ。

 

  所謂、月光の曲(作品27の2)は、それこそ幻想的でロマンティックな名曲として知られているが、何百回も弾いた今、弾く側からもう一度見直すと、どうしてどうして甘っちょろい曲ではないのである。

最初のテーマが出てくる迄の8小節の前奏だけでも、曲全体を指し示す布石が打たれている。その重圧にたえる深い音色、リズムの持つ緻密な美しさを見つけるために私は2時間という時間をかけなければならなかった。そしてある瞬間、音楽の神様は「そうなんだよ」と秘密の扉を開いてくれるのだった。そうすると、音楽が生き生きとして喋り出す。そして初めて聴いている人の心の中に共鳴を作り出すのである。その共鳴、感動はそのまままた、演奏する人間の歓びなのである。

第1楽章の終り、話したり歌ったりしていた登場人物が皆静かに退場して行き、深い静寂が訪れる。沈黙。そしてその中から第2楽章の美しいコーラスが湧き起こってくる。岸に打ち寄せる波は、時に風に吹かれて荒々しい波音を立てる。そして曲は、第3楽章のまるで蝶の大群が舞う様な、きらびやかと速さに満ちた風景に突入する。

正直を云うと長い間私は、この一幅の絵を作る筈の第3楽章の存在理由がよく判らなかった。しかし今、私はようやくその謎を解く鍵穴に鍵を突っ込んだと思う。人間の複雑さ、素晴らしさ、自然の持つ何にも犯されない美の法則などなど、それらの経験のつみ重ねが、私にその鍵を与えてくれたといえよう。私はそれまでかかった時間の長さを思い、長生きしてよかったとつくづく思うのである。

 

或る日、私はベートーヴェンを弾いてすぐシューベルトの変ロ長調(D.960)を弾き出し、この二人の作曲家の要求している音は何と別のものかと、その違いにびっくりしたのである。

もちろん二人の音楽が基本的に違うのは、丁度一人ひとりの人間が違う様に当たり前の話しかもしれない。しかしピアノという楽器、叩けば音が出るという所から発して、どちらかと云えば大まかな楽器かも知れない。その同じピアノという楽器を使って、これ程までに違う世界が要求されるとは……と、当たり前のことかも知れないが、愕然としたのである。

 

シューベルトの遺作のソナタ(D.960)は、その巨大な機構と、世にも美しい歌とで解かれない謎の様にこちらに迫ってくる。

出だしの8小節の素朴なメロディは、文字通りまるで道端に立つ石仏のよう。そして現れたかと思うと遠雷の様な低音のトリラーで消えてしまう。こんな作曲テクニックを誰が使うであろう。どの曲でも出だしというのは難しいものであるが、この素朴でしかも全曲を支配する魅力ある音楽の演奏は本当に難しい。

このテーマは展開部やらその他で色々な衣裳をまとって現われ、色々物議をかもすのだが、どんなに緊張して来てもベートーヴェンの様な決定的な物言いをしない所が、シューベルトのシューベルトたる所以だろう。いつもどこかに優しさと、しかし暗さを含んでいる。

第2楽章でも、美しいテーマは優しさと沈み込む陰影に閉ざされている。そして決してメランコリーに陥ることなく最初と同じさりげなさを要求してくる、それも執拗に。そう、この執拗なさりげなさは、この曲全体に流れていると云えよう。

解放されたかの様な第3楽章もトリオになると、バスのスフォルツァンドが不吉な匂いを発散させる。シューベルトはこの曲を作って間もなく死ぬのだが、あのモーツァルトのレクイエムの様な「死の面影」を感じていたのだろうか。

第4楽章も作曲手法としては一寸不思議な手法、いつもG音を伴う短いテーマが繰り返される。結局は消え入る様なこのテーマの断片が曲の終りを告げるのだが、途中二度繰り返される圧倒的なアッコードと、激しいリズムの緊張する部分も、このテーマの持つ不思議な陰鬱さを消し去ることはなかった。

 

不思議な大曲であるが、こうやって弾いてみると、彼の思想を出すにはこれだけの長さが必要だったとしみじみ思わせられるのである。

 

2005年10月8日 室井摩耶子

 


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